●なぜ切り絵で描くのか?
先日、路上で切り絵パフォーマンスを行っているとき、ぼくの足元に散らかった、切り抜かれた紙のかけらを見た通りがかりの男性が言いました。
「紙、もったいないなあ」
そうです。もったいない。描けば描くほど、紙がかけらとなって失われていきます。
切り絵は、油絵・水彩画が絵具を足して描いていくアートであるのに対し、画材を削いで描くアートです。
プロセスはそれぞれ違いますがどちらも完成すれば同じ絵画作品です。
切り絵というものは、アートの世界において「一風変わったジャンル」と皆様には思えるかもしれません。
しかし「何で描くか」という課題は、「何を描くか」という前ではあまり意味がないことであると思っております。
フレンチのシェフも、中華のコックも、和食の料理人も手法は違っても「お腹を満たす」という目的が同じように、われわれジャンルの違う芸術家の目指すところは同じです。
それは人々に感動を与え、癒し、心に変化をもたらすことです。
クレヨンの絵は子供の絵? 油絵だけが芸術? デジタルは邪道?
果たしてそうなのでしょうか。
いつの時代もアートは、われわれ芸術家の手もとをはなれたところで、移ろいやすい人々の感情や権威というものに翻弄されてきました。
きっとこれからもそうでしょう。
こればかりは、芸術家がいくら束になって躍起になっても変わらない、人類のサガです。
世界的なオークションや権威を名乗る者の前では、耐久性の高い油絵の価値は高く、水彩画は価値が低い、とされています。ましてや紙を切っただけの切り絵など評価に値しないのかもしれません。
しかし、人間が老いていくように、木々が枯れていくように、鳥の鳴き声がやむように、「永遠じゃないもの」「衰えていくもの」を天からさずかったわれわれが、何を選び何を愛するかは、人それぞれ考え方を異にするところです。
そして八田員成は自らの画法に、切り絵を選びました。
切っただけの、紙です。
かけらを失い、かけらを献上した末に残った紙です。(まるで「幸福の王子」みたいですね)
過ぎた時間と、向かってくる時間の狭間で、アトリエで作品を制作している時、「永遠に形を変えないもの」を手に入れようとする、やましい心はあまりにもちっぽけで意味を持たないことに気づきます。
人の想いも、奏でる音も、地球の形も変わり続けていきます。
切っただけの紙。
永遠に形をとどめることのない物質。
しかし、そこには何らかの痕跡があります。
切り絵アーティスト八田員成がこれまで描き続けてきた作品は、自身の、どこかの誰かの、些細で広大な物語です。
これからもずっとそうです。
失われていくことで残った紙に、ある種、魂のような刻印を宿して生まれてきた作品。
それが八田員成の切り絵なのです。
●作品に登場する人物にモデルはいるのか?
人物画、特に女性を描いたものが多い八田作品を見て、よく受ける質問です。
YesかNoの2択しか選べないとすれば、答えはYesです。
しかし、「ただ見たままを描く」ことが苦手な、天邪鬼です。
本当の答えは「Yes寄りのNo」。
どういうことなのか説明します。
1枚の作品にひとりの女性の姿が描かれているとします。
あなたは、その作品の女性を見て「○○に似ている・・・でもどこかが違う」と感じるはずです。
なぜなら様々な人の姿を合成させて描かれているからです。
つまりモデルは特定の1人、ではないわけです。
顔のりんかく、
目の表情、
ポーズ、
手の形。
八田が視覚的な美しさを感じた、あらゆる人の部位を組み合わせた、この世に存在しない者の誕生。いわば「神(紙)の子」です。
そして、その姿をあくまで「入れ物」として、
描きたい感情・心象風景・イメージ・物語などを、
花や蝶、うねりの線、色などを用いて視覚的に伝わるものとして描き入れてます。
まるでグラスという容器に、ワインという美酒を注ぐかのように。
あなたが八田員成の切り絵作品を見るとき。
それはグラス(人の姿)に注いだワイン(花や線などの視覚的デザイン)を、光に透かして見るような時間です。
見ているうちに、直接的ではない味や香りが五感を刺激するはずです。
複雑な線の堆積で浮かび上がる、物語の表情を感じてください。